東北、福島より。そしてちょうど、二年。
ハイ、
一年以上ぶりの更新です(どんだけwwww)。
長い間の音信不通、すいませんでした。。
m(__)m
お久しぶりでございます。
…
皆さんご存じだと思いますが、先日、3月11日。
14:46
宮城県沖にて
マグニチュード9.0
東日本大震災発生。
私はまさにそのとき、宮城県の仙台に居ました。
あの一日のことは、断片的に、でも、鮮明に覚えています。
実家の福島に住んでいる今でも、仙台には月2回くらいのペースで遊びに行っているんですが、その日はいつもお世話になっているヘアサロンでカラーを終え、今働いている会社の社長のところにご挨拶に行こうとしたところでした。
ちょうど大きなビルに入る前にキャッチのお兄さんに声をかけられ話していたら、ふいにケータイが震えて大きなアラーム音が…
『緊急地震速報』
ぐらぐらと揺れだした地面
がたがたと鳴る街
始めはさほどじゃないと思っていたのに、収まるどころかますますひどくなる揺れに、ただごとじゃないのを悟りました。
今にも倒れてきそうな電柱
カラカラと音を立てて落ちるコンクリート破片
空を背景に、しなるように揺れる高いビル
人々のざわめきと悲鳴にも似た大声
何度も襲ってくる揺れ…
私はただ道路に座り込み、上を見上げて落下物に怯え、急に大きくなる揺れに反射的に悲鳴を上げることしかできませんでした。
すごく怖かった。。
ある程度揺れが収まってまず、友人や知り合いのことが心配になりました。
すぐさま握ったケータイからTwitterに投稿。みんなに無事を確認する呼びかけをしました。(それ以降しばらく、私のケータイはメールの送受信も電話もネットもできず、ほぼ使い物になりませんでした)
収まったと思っても繰り返す余震に為すすべもなく、周りに居た見ず知らずの人達と集まって、声を掛け合いました。
裏通りのあたりだったのに、周りには建物から逃げ出してきた人でいっぱい。
近くのサロンから逃げ出した人は、カラーやシャンプー中のままの頭だったし、
スポーツジムの人たちは半袖のままで外に飛び出してきていて、
なんだか異様な光景でした。
どれくらい、揺れが続いたんだろう…でも、30分近くその場から動くことができなかったのは覚えています。
崩れた壁
割れ落ちたガラス
ぐちゃぐちゃのショーウインドー
フォーラスも藤崎もダイエーも立ち入り禁止
根元から倒れた2mくらいの大きなカラクリ時計
様変わりした街を撮影する人々…
私は混雑する駅前で奇跡的に同じ会社の同期やマネージャーと合流でき、避難所の小学校体育館へ避難しました。
暖房のない体育館で、上着を持つ間もなく逃げてきた人々は身を寄せ合い、
それをあざ笑うかのように、空が真っ白になるほど強く、雪が降りだしていました。。
繰り返す余震と、そのたびにかばってくれた同期
繋がらない電話
パニックに陥って叫びだす子供
寒さに身を寄せ合い、声を掛け合う中で、悪夢を現実として受け入れ始めていました。
結局、交通機関は完全に麻痺してしまい、一人暮らししている同期の女の子の家に泊めてもらえることに。
立ち入り禁止の駅
暗くなっていく街
道端に座り込む人たち
明りの消えた街で見上げた夜空は、皮肉なくらい星が綺麗でした…。
実家には公衆電話から連絡を取ることができ、母と姉たちの無事を確認。
しかし父は翌日まで安否がわからず、気を揉みました。
同期の家は、幸い電気が寸断されていたくらいで、それも二日後の明け方には復旧。
私が実家に帰るまでの三日間、彼女とは助け合いながら、支え合いながら過ごしました。
今まで彼女とはさほど深い話をする機会がなかったのですが、本当に濃かった三日間…私にとって彼女は、大切な友人の一人になりました。もう間もなく退職が決まっていた彼女と仲良くなれたのは、きっと運命だったのかもしれません。
Nちゃん、、本当に、ありがとう。落ち着いたら、きっと一緒に美味しいものでも食べに行こうね。
結局、私が実家福島に帰ったのは15日に日付が変わったばかりの真夜中、午前2時前。
県職員のため、地震対応で忙しくほとんど休めていなかった父が、福島での仕事を終えてそのまま職場から無理をして仙台へ迎えにきてくれたのでした。
さすがに途中何度か仮眠を取ってもらいながら帰りましたが、父は相当疲れていたと思いますし、その日も、そして今日も、地震が起きてから一日も休むことなく出勤して行っています。
しかも地震後から電車が運休で使えず、ガソリンも確保できる確約がないので、私を迎えに来た翌日からは(おそらく)15kmほどある道をジョギングで通勤しているようですし、仕事の状況によっては帰って来ない日もあります。
現在、私の実家は断水中ですが、間もなく復旧する予定です。
仕事は今のところ自宅待機。
私はまだ幸せ者なんです。生きていますし、家も家族も無事でした。今のところ、家族や友人、直接の知り合いの訃報も聞いていません。
しかし、知り合いのご家族では、津波によって亡くなった方もいらっしゃいます。家が流された知り合いも居ます。
それから、福島原発で旦那が働いている友人も居ます。旦那さんは先日無事に帰宅されたようですが、小さな子供たちがいるにも関わらず、いつまた召集されるかわかりません。
地震よりも津波の被害は想像を絶するもので、実際に海沿いの現状を見てきた人の言葉には涙が出ます。。
この瞬間にも、苦しんでいる人が居るのは事実です。死と隣り合わせで震える命の火。。
風評被害に怯えるふるさと…。
書きたいことは山ほどあります。
他人事ではなく、知って欲しいことがたくさんあるんです。
微力かもしれない。
でも今自分ができることを。
これから少しずつ書かせて下さい。
一つでも多くの命の火を
どうか消さないで。
*:;;;:*゚。+☆+。゚+*:;;;:*:;;;:*゚。+☆+。゚+*:;;;:*
そして、補足的な書き方になってしまいますが、
今日はぽんずが虹の橋に旅立って、ちょうど二年。
今でも形見としてバッグに付けているぽんずの首輪が、もしかしたら私を守ってくれたのかもしれません。
ぽんちゃん、ありがとね。これからも、見守ってね。
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